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アスリートとアスリートを応援する人のための知識データベース

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ネットでは結論を冒頭に書いたほうが良いと言われているけど、この記事はさほど長くないので(3000文字ちょっと)、ぜひ最後まで読んで欲しい。さて先日、佐野研二郎氏がデザインした「五輪エンブレム」が取り下げられた。一度決定されたことが覆るのは「新国立競技場」のザハ・ハディド案に次いで2度目である。いずれの場合も決定から撤回へ至る顛末はかなり異様であったと私は思う。また特に前者の場合はネットの力に驚かされたのだが、同時に私はかつてあった社会性が「ネット社会」のせいで喪失してしまうことを危惧している。
 
ところで、社会とは何だろうか。身近な例から書くと、まずそれは分業によって成り立つものであると考えられる。都市思想家のジェイン・ジェイコブズも「都市社会」のメリットはまさにその分業にあると述べている。
 
例えば起業しようとした時は、その都市に既にあるリソース(他者の仕事)を活用することができるので、起業に必要なもの全てを自前で用意する必要はほとんどない。また、例えば私は建築の設計の仕事をしているのだが、庭の設計が必要になった時は、外構デザインを専門にしている方にその仕事をお願いすればいい。もちろん、重そうな植物図鑑などを買ってきて、自分で一から勉強して庭の設計も全て自前でやるという手もあるのだが、それによって何らかの達成感が得られたとしても、それは到底“プロ”の仕事とは呼べないだろう。
 
一方、都市は人類が生み出した最高の発明品である。都市社会では互いに分業し合うことによって、一個人があらゆる仕事に精通した達人のような存在にならずとも、質の高いプロダクツを続々と生み出すことができるのである。
 
さらに、仕事以外の余暇や日常の生活においても同様で、都市社会に参加していれば、年に数回はスポーツの観戦やプロの演奏家によるコンサートなどで心躍る時間を過ごすことができるだろうし、月に数回はレストランで自炊では決して味わえない料理を堪能することができるだろうし、また、自炊をする場合でも、その食材の肉は自分で動物を育てて屠殺しなくても、近所のスーパーですでに調理しやすいようにカットされた肉を簡単に手に入れることができるし、また野菜も自分でトラクターを運転して畑を耕して育てて採集する必要がない。これが社会である。
 
もちろん、ごく親しい人々との関係もとても大事であるが、社会とは何かの問いの答えの大半は、これらの例で事足りる。社会とはアダム・スミスの「見えざる手」の説明にあるような自生的に協同している組織である。そして、これらのおそらく誰にとっても自明で、あまりにも日常的であることを今こうやって私があえて長々としつこく書き連ねているのは、ネット社会における「五輪エンブレム」問題でのサイバー・カスケード(炎上)の“異様さ”を際立たせるには有効であると考えたからである。
 
もちろん、社会とは上記の例が全てではない。現実の世界には未来を予測することの不可能性(偶然性)があるので、それに応じた仕組みが社会には実装されていたりする。最も分かりやすい例は「保険」である。その起源は海運にあるとされているが、これはいつ船が沈没するか分からない状況下で仕事をしている人々にとっての、万が一そうなった場合の被害を最小限に抑えるための相互扶助の制度である。
 
次に分かりやすい例は都市施設の『バリアフリー化』だろう。これは身体に障がいがある人が健常者と同等の都市生活を享受できるようにするための制度である。実際のところ、障がい者の割合は健常者に比べて圧倒的に少ないのだが、健常者でも自分がいつ予期せぬ事故や病によって障がい者になるか分からないという偶然性から逃れることはできない。よって、これは健常者のための制度であるとも言える。
 
自分が万が一障がい者になっても、それ以前とほぼ変わらぬ生活を享受することができるようになるからである。「バリアフリー化」が健常者に与える安心感は、何物にも代えがたい。これは「生活保護」などの他の制度についても当てはまる。いずれにせよ、これらの例は社会とは直近の現実よりもはるかに私たちの「~かもしれない」という想像によって成り立っていることを示している。
 
民主主義の伝統のある西欧では、17世紀以降、ホッブズ、ロック、ルソーなどの思想家たちが民主主義の望ましいかたち、その骨組となる論理の構築、その実装などに腐心した。20世紀になって、アメリカの哲学者のジョン・ロールズは彼らの仕事を継承して、『無知のヴェール』に人々が覆われた状態を民主主義を基礎づける新しい原理として提示した。
 
この『無知のヴェール』とは「自分がどういう社会的立場にあるのか分からない」または「自分が最も不遇な立場に置かれるかもしれない」といった想像上の状態のことであるのだが、真っ当な説明は省くとして、ロールズの論理を非常にくだけた言い方で説明すれば、常に相手の立場に立って我が身のことのように感じること、それが各自の行為の規範になっていて、そうした人々が集まってつくる社会制度が最も望ましいものになるといったニュアンスのことである。
 
いずれにせよ、ロールズが提示した民主主義の基礎となる原理は前述の「~かもしれない」に似た想像によって成り立っていることが分かる。現在の日本で民主主義と言うと、先日も行われた「国会前デモ」のような荒々しいさまをイメージされる方もいるかも知れないが、一方では民主主義はそれと正反対の非常にデリケートな「繊細な直観」に基づいているのである。
 
20世紀末になってネットという新しいテクノロジーがかつてはなかった異形の集団を生み出した。それは西洋で長い年月をかけて地道に制度化されていった民主主義と比べれば、ほんの一瞬の出来事である。「ネット社会」と「都市社会」は必ずしも対立の関係にあるわけではないが、この1カ月間の「五輪エンブレム」に関する顛末は「ネット社会」の威力を私たちにまざまざと見せつけた一大事件であったと言っても過言ではないだろう。
 
「五輪エンブレム」で問題視されたのは佐野氏による数々の「パクリ」行為の疑惑であったが、一方でその行為をネットで糾弾している人々が日頃それと同様の行為(著作権侵害)を一切していないとはどう見ても私には思えない。糾弾している人々の中にはツイッターのアイコンがアニメであるケースが多く見られるし、言うまでもなくそれも立派な著作権侵害であるし、また、明らかに著作権侵害しているサイトを平然とリツイートしているケースも多く見られる。
 
つまり、自分が他人に強いていることを、肝心の自分自身には一切適応しないという愚鈍な非対称性がここにある。このような態度は極めて危険である。なぜなら、それは私が先ほど述べたような「常に相手の立場に立って我が身のことのように感じる…」という行為によって成り立っている繊細な民主主義の原理とは全く正反対だからである。
 
今後「ネット社会」がますます増長するのは避けられないし、また私自身もかなりツイッターに入り浸っている人なので、それを妨げるべきではないと私は(希望を込めて)考えていたが、今回の事件の一部始終を目撃した今となっては「ネット社会」の増長に伴って私たちが「都市社会」で長年かけて築いてきた民主主義が喪失してしまうのではないかという危機感を抱かざるを得ない。
 
また、今回の事件にはナチズムにお墨付きを与えたドイツの法学者のカール・シュミットの「拍手と喝采」を連想させる怖ささえある。ナチズムは民主主義が機能不全に陥った後に生まれたということを私たちは忘れてはいけない。

<了>


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